自然との関わり合い

月刊下水道 Vol.21 No.16 1998 より

1,秘境も身近な世界に
 昔は全く想像の世界であったヒマラヤの高山、大洋の孤島ガラパゴス島、南極などとても行けない所やどんな秘境までもテレビカメラが入って、お茶の間であたかもそこに行ったようなリアルな感覚で見ることが出来るようになった。ヒマラヤ山脈を超えて渡っていくアネハ鶴や奥深い森のゴリラの生活など、絶対に見られないような生物がすぐ近くに存在しているような感じになっている。
2,自然と人里の境界
 昔は自然と人里とが割と明確に区分されていたような気がするが、最近はその境界がよく分からなくなっている。一つが道路などの整備によって何処にでもすぐに行けるようになったことである。人家のない所に町を結ぶ道路や林道が整備されている。このような交通機関の発達によって、普段都会の暮らしをしている人が短時間で人里離れた相当山奥の険しい所にでも行けるようになってきている。こうして自然に親しめるようになった多くの人が自然の大切さを認識するようになってきている。
 一方、市街地においてビオトープなど、できるだけ自然に近い状況を作ろうとする動きも盛んである。草が茂りトンボやカエルの住む池など、街の中に自然が入り込んだ形になる。
 現在10階の比較的高層の団地に住んでいるが、高層化により比較的緑地を広くとれたため、緑が多く、10mに及ぶ大きな木も多くある。夏になると、緑地の中を通る通路の近くの地面に蝉の這い出た穴がそこここに見られ、蝉が定着していることが分かる。夏に鳴き声がうるさいことはあるが、
一般住宅地の何倍の人口密度でも自然にできるだけ近づく工夫ができる。
3,人の手の入り方
 自然と人工との境界がはっきりしなくなりつつあるなかで、都会と山奥を行き来して自然を題材にしてジャーナリズム活動をしている人々の中に、全く人の手が入らない世界を希求して河川護岸などの公共工事を批判するような意見が多い。しかし、人が気軽に自動車で立ち入り出来る世界はすでに本来の自然の世界からは離れてきているのである
 道路は河川のそばを走らざるを得ず、所々に河川にかかる橋が必要である。我が国の河川は急勾配で流れの安定しない暴れ川が多く、本来、人の立ち入りが難しかったのが河道の安定工などによって道路もすぐに壊れることが少なくなり、安心して山奥まで行けるようになった。最近、カヌーで自然に親しむ人が増えているが、
道路が整備されて自動車が川のすぐ側まで入ることができるから重いカヌーを運んで水に浮かべることができるのである。
 琵琶湖の東岸も昔は広大な葦の原が広がっていて、なかなか人は近づけなかった。琵琶湖総合開発による湖の周りの湖岸堤道路で、今は湖を身近に見ながら走ることが出来る。
 このようにある程度人の手が入ったことにより、自然に気軽に接することができるようになっていることをよく理解しておく必要がある。また、
このような環境は必要に応じて手を入れ続けていないと、ひどいことになることを意味する
 自然のままにあるように見えるが、文学作品のいい題材となる平林寺に残る武蔵野の風情ある雑木林も、周辺農家の下刈り作業によって環境が保持されていた。
4,自然世界の動物との行動範囲の混じり合い
 自然との境界と同じような傾向として行動範囲がある。最近山地に近い農地での動物による被害が目立つなど、生活圏が混じり合うようになってきている。自然保護活動により、かもしか、イノシシや猿の生息数が増え、人里まで降りてくるようになった。昔は自然の動物と人とは生活圏が異なって、混じり合うことはあまりなかったと思う。こうなると自然の山林が動物園のようになった感があるいのししや猿は畑を荒らすので大きな問題になっている。
 逆の問題もある。道路の整備によって相当の山奥まで人が立ち入り出来る。これがバードウオッチングのように自然を尊重するものならいいが、山菜取りや渓流釣りなど食料を根こそぎにするようなものであると、
熊など野山にある食べ物を沢山取らなくては行けない動物は参ってしまう食べ物がなくなった熊は、仕方なく人里まで降りてくるようになる。
                            
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