逆転の思想−145        目次
              水道公論2015年5月号


  人の運を考える
 マレーシア機、ドイツ機など不可思議な航空機事故に遭遇された方々は、非常にお気の毒であるが、事故は起こってしまった。フランスの航空機事故ではドイツの会社なので、安全管理はしっかり行われていたはずであった。残骸も見つけられないマレーシア機は海に墜落したのであれば何らかの浮上物が残るはずで、壊れずに着水したなら脱出できたと思われ、インドネシアの人里離れた密林に落ちたのであろうか。
 昨年11月下旬にチュニジアの古代遺跡ツアーに参加し、到着した日に去る3月18日に観光客襲撃事件のあったバルドー博物館を見学した。ローマ時代の建物の床など、モザイク模様を集めたあまり大きくない博物館で不意の際の逃げ場もあまりないようなところであった。リビアが隣国にあり、不安な中東情勢やエボラ出血熱など危険な地域は遠くなかったが、チュニジアはそういうことがない安全な国ですと言われていた。
 安全なはずの状況で不幸に遭遇することが頻繁に起きている今、リスクの意味を考え直さなければならないのだろうか。リスクがあるからといってどこにも出かけなくても、東京でもし大きな直下型地震が起こったら、どうなるか分からない。確率の問題で絶対安全なところはない。
 撃墜されたマレーシア機は迂回航路を飛んでいたらというリスクをどう予知するかのことがあったように思える。
 予知するのが非常に難しい道路の土砂災害が起きてしまった時に、公共施設の安全管理を怠ったとして多額の賠償金を裁定したり、リスクを充分承知して危険地域に入り、不幸な目に遭った人に国の責任を追及したり、また強制的に行かせないようにするなど、単純に危険か安全かというような判断をするのは別な問題を引き起こす。
 飛行機を一便ずらしたなどちょっとのことで不幸に合わなかった人もけっこう多い。どこかのツアーで一緒になった人は飛行機事故に2回も遭遇して助かっていた。一回はナスカの地上絵見学で飛行機が故障して砂漠に不時着したこと、それと乗っていた飛行機が地上で火事を起こして緊急に脱出したことがあったこと。
 いいことも確率の対象となる。飛行機事故で亡くなるより、宝くじで高額当選する確率の方がずっと高いであろう。
 考えてみると自分が生まれて生きているのはとてつもない確率の幸運である。親が自分を生んでくれたことさえ天文学な確率であるのに、親が生まれた確率も同様で、生物誕生までの祖先までさかのぼるととんでもない確率となる。
 今生きていることがこれほどの幸運なのだから、不慮の死も甘んじて受け入れなければならないのだろうか。

 下線部分は印刷の際抜けていたところ。