逆転の思想−143        目次
              水道公論2015年3月号


  人質事件の対処
 中東での日本人人質で大騒ぎになっているが、報道の姿勢がなにかおかしく思われる。表向きは安否を気遣いながら、裏を見ると人命を心配するというよりスキャンダルスクープとあまり変わらぬ視点にあるような気がする。
 誘拐や脅迫を行って堂々と発表するのは、自己のPRが一番の目的である。それに乗っかって、大きな時間を割いて、しかも勝手に犯人側に通じる人間にインタビューしたりしている。自分が報道という中立的な立場なのだろうと考えている節があるが、人質の国籍の報道機関は敵と見なされ利用されるだけで、向こうのPRをせっせとやるだけである。また相手に聞くということは間接的にこちら側の状況を伝えることになり、こちら側の状況も筒抜けになる。向こうのPRの意図にのって大騒ぎすることは、大成功したからまた次をやろうというように増長させ、宣伝したい相手の思うつぼにはまっている。テロ対策の専門家を呼び出したり、動きがないのに政府責任者に一日何回も同じ質問をして、答える方も同じ建前しかいえない。トップに何度も同じ建前を言わせて時間つぶしすることに満足しているようである。人質の交渉はだいたい秘密裏に行わなければいけないもので、根掘り葉掘り聞いていちいち報道されるものでない。 
 人質の家族が頻繁に出てくるなど、ドラマ仕立てに近づけることに報道意図があるのだろうか。いろいろな事件について劇のような演出を行い、受け手に感動をいかに与えるかが報道関係者のビジネスマインドになっているように感ずる。
 殺害されたとする不確かな情報が入ってきて、夜中に臨時の関係閣僚会議をしたということであるが、こういうことがどういう意義があるのか。本来重要な公務で多忙な閣僚に集まっていただくのなら、事態の進展があった時だけでいいように感じた。担当スポークスマンの非難声明だけでいいのでないだろうか。メディアも大勢押しかけているようであるが、一方で外国に不当に拘束されている新聞社員の方は報道が殆どなく、ジャーナリズムとしてのあり方に大きな疑問を感じる。
 非常に危険なところなのに敢えて行った人のことをあまりにも美談にしてしまうと、それなら自分もという人間も、という人間をさらに作り出すことにつながりかねない。
 また、リスクはどこにでもあってその向こうにはいろいろ大きな可能性があり、本来自己管理すべきものであるが、危険地帯に行く人間を国が絶対に守らなければいけないなどとする主張は大人を子供扱いしてリスクに近づけさせない変な風潮を増長させることになる。
 報道というのは事実をできるだけ正確に伝えるとともに、状況に応じた姿勢を考えなければいけない。進展がないなど報道することがないときは報道しなければいいのであるが。