逆転の思想−136        目次
              水道公論2014年7月号


  報道の選別・差別
 世の中では無数のことが毎日起こっているのだから,ニュースはその一部を取り上げることしかできない。従って報道というものはそれ自身が選別であり、場合によって差別という言葉も当てはまる。
 今回の韓国の船舶事故で不思議なのは国内の重大事故と同じように連日大きな時間や紙面がさかれて報道されていることである。これまですぐ近くのフィリピンでフェリーが沈んで何百人の人が亡くなっても紙面の片隅に載る程度と報道は小さかった。今回はこれまでの東アジアの海難事故報道に比べ2桁くらい多い報道となっている。
 自国民が巻き込まれたなら気になるのは自然であるけれども、亡くなった方にはお気の毒であるが、邦人は巻き込まれていない。なぜこれほど大きく報道するのだろうか。報道発信側が大量の情報を流しているからだろうか。わざわざどこかの研究所に頼んで、重心が高くなった船の危険性を模型船で実証している番組もあったのでそうでないかもしれない。研究所まで多分只で報道に動員されていることになる。
 もう一つ不思議なのは大手報道機関が旅客船と報道していること。事故船は車なども運ぶフェリーで、貨物の過積載が大きな問題になっている。せめて貨客船という表現になると思うが日本の大手メディアだけなぜ貨物や自動車を運ばず、人だけを運ぶ旅客船とする報道を続けているのだろうか。
 日本のメディアの報道が他国も同じであろうがけっこう一時的な感情や報道側の思想で構成され、世界的に見てなぜ大騒ぎするのか理解されないだろうと思えることが結構多い。消費税の過去の報道などがこれにあたる。税制を少し変えるものであるが、国政の基本に絡むような大きな問題として大々的に報道された。
 最近、週刊誌に加えて外国の放送や、インターネットでニュースを広く入手できるのでありがたい。アフリカ関係など大きな事件も日本の取材体制がないのか報道されないことがあるので。
 一つの事象を大きく報道するということはその分載るべき何かの報道が載せられていないということである。スポーツのような世界では大勢の人が皆一所懸命に練習している。本来多数の人が関わる全国大会は関わる人々の数に応じてある程度は均等に報道されるべきものであるがそうなっていないと考える。
 その一つが高校野球だろう。公共放送が、高校野球の決勝戦でもない全試合を何日にもわたって中継放送するということはほかのスポーツを無視していることにつながる。同時期に行われる高校生の総合体育大会とは報道量に大きな差がある。同じく一所懸命に練習に励んだ結果であるのに、セミプロの世界のような高校野球では視聴率稼ぎのためか全試合が報道され、かたや決勝レースも報道されないというのは、差別に近いということになっているのでないだろうか。