逆転の思想−133        目次
              水道公論2014年4月号


  財政難の抜本解消策
 毎年国債がどんどん積み上がっていて、いつ大暴落のようなことが起こるのか気になるが、もってのほかの方策で難しい財政難を一挙に克服した薩摩藩の例がある。
 財政改革を行ったのは下級武士出身の調所広郷(ずしょひろさと)で、第八代藩主・島津重豪(しまづ しげひで)に重用され、1828年に財政改革主任に任命された。
 薩摩藩は公称77万石であったが実質収入は半分くらいで、木曽三川の改修工事を担当させられ大きな負債を抱え込み、当時藩収入13万両に対し、支出が20万両、これの4割の8万両が利払い、5割の10万両が参勤交代と江戸の藩邸維持経費であった。借入金は500万両に上り、利息だけで毎年80万両。負債額を収入額で割った値は約40に上っていた。今の日本国は公債残高が750兆円で、,消費税アップを見込んだ平成26年度の収入が55兆円とそれでも14である。
 調所広郷は島津重豪から1831年からの10年間で、50万両の備蓄金を備えること、幕府への手伝い金(上納金)と非常手当(藩軍用金)を準備すること、500万両の借用証文を取り戻すことを厳命され、とんでもない施策をいくつも行った。
 まず薩摩最大の特産物である奄美地方の黒砂糖を専売制にして、農家から非常に安い価格で買い取り、砂糖問屋の商売のうまみを藩に取り戻すようにした。また琉球での外国との密貿易を拡大し、手数料を増やした。
 最大の問題であった借入金であるが、1836年に大半が大坂商人であった債権者に対し「250年賦、無利子償還」を宣言し、有無をいわせず1836年から償還を始めた。償還は明治の廃藩置県で免責になったが、2085年まで続く予定であった。
 第十代藩主、島津斉興(しまづ なりおき)も調所広郷を重用した。
 このような極端な荒療治によってたった十年で劇的に財政が改善された。備蓄50万両と非常用積立金が得られ、薩摩藩は幕末期に国内屈指の富裕藩になった。しかし借入金を計算すると毎年2万両返済として、まだ480万両もあったということになる。
 1851年に島津 斉彬が藩主となり、富国強兵に努め、西洋式軍艦「昇平丸」を1854年に建造し、1863年の薩英戦争を戦うほどの実力を持てたのも、調所広郷のとんでもない財政改革があったからで、これが進まず、薩摩藩に力がなかったら、日本の植民地化は必至であったと思われる。
 借金不払いの被害者である大商人がそれほど困らなかったのなら、いい解決法のように見える。
 これほどの立役者であったが、斉彬と久光の藩主跡継ぎ紛争に絡んで密貿易の情報を幕府に流され、1848年に江戸に出仕した際に老中に糾問され、その後急死した。島津斉興に責任追及が及ぶのを防ごうとして自殺したともいわれている。
 不可能であるような荒療治を行わない限り、極端な財政難は解決できないのであろうか。