逆転の思想−119        目次
              水道公論2013年1月号


  人生の定年
 一休さんの狂歌である、「門松(正月)は冥土の旅の一里塚」が年とともに感慨を増している。
 海外ツアーに出かけて旅行日程の半分くらいまでは、帰国の日が相当先という感覚である。しかし、日程の半分が過ぎるとだんだん慌ただしくなってあっという間に最後の日になってしまう。子供の頃の夏休みや林間学校もそうであった。
 人生80年とすると半分の40才過ぎから1年がどんどん早く過ぎる感じになるはずで、残されたをもっと時間を有効に使わなければならないと思うがなかなかそうならない。
 19世紀のフランスの哲学者が考えたジャネーの法則というものがあり、体感時間(時間の心理的長さ)が年齢に比例するというもの。60才の1年は10才の1/6の2ヶ月と同じ早さで過ぎる感覚となる。1才の時は10年にもなり、母親のおなかにいるときはものすごい時間を過ごしたことになるが、人類の進化の何億年という歴史を考えると細胞分裂の中で同じ歩みをしているだろうからこんなものなのだろう。
 ものごころがつきはじめた5才頃を出発点として、80才までの体感時間を計算することにした。簡単な微積分方程式でも手が出ず、表計算ソフトを使った逐次計算で数値を確認しながら計算すると、体感時間で人生の半分が過ぎるのは20才の頃である。60才では残りの人生は1割くらいと少なくなってしまう。
鮎、鮭やセミなど寿命の決まっている生物がいる。生物の世界ではこちらの方がずっと多い。獰猛なスズメバチも1年しか生きていられない。17年ゼミなど卵が孵って、17年目に地上に出て産卵しすぐ死んでしまう。
 夏、高層階のベランダや通路にアブラゼミがしょっちゅう飛び込んできてばたばたもがいている。平衡感覚の方が先にだめになってしまうのだろうか。羽の勢いはあって元気そうなのに、何年も真っ暗な地中で我慢してやっと地上に出てきてもうおしまいなのかと不憫になる。
 自分がいつ死ぬか分からないので、いつまでも長生きするような感じでいるが、これは甘い思惑で死は確実に近づいている。筆者は戦中に生まれたが、中学、高校、大学の同級生では、すでに約1割の人に死の運命が来ていて、男性が大半である。平均寿命までに半分の人が亡くなるのであるから、鬼籍に入る数が急速に増えてあと10年ちょっとで半分になり、男性の確率が高いので自分もこの中に入ると考えなければならない。平均余命は少し長いにしろ、どのみち同じようなものであろう。
 もし、人の寿命が80才などと決まっていたら、多くの人が、計画的に行動し、思い残しの少ない充実した人生を送ることができるような気がする。
 人生は少し幅があるが必ず定年があるのであり、残された時間は限られていると、有効に使うようにしていかなければならないのだが、ついつい時間に流されるだけとなってしまう。