逆転の思想−112        目次
              水道公論2012年5月号


  PPK
 PKOとかTPPとかPが入った言葉が氾濫している中、外国で通じないアルファベットの羅列で申し訳ない。ピン・ピン・コロリの略である。年を取ってもいつまでもピンピンしていてある日突然亡くなること。晩ご飯を普通に食べて、その晩に気がついたら寝てるように亡くなっていたという話は時々聞く。
 人生も残り僅かになってくるとひしひしと感ずるのが、何時までも元気で、その時になったらころっと逝くことへの強い願望である。90を超えた母親を見ていると、回りの人がどんどんいなくなり、残った人も耳や目が衰えて、電話も使い難く、手紙も書けなくなってきて、年ごとに寂しさが増す。高齢でもパソコンが使えてインターネットで知りたいことを知ることができ、手紙よりもずっと容易なメールができると精神環境が全然違うので、数少なくなったパソコン音痴の人にパソコン習得を勧めている。
 多数の高齢者がいる老人ホームでは、元気な人は、活発に活動でき、これが元気のもととなっているが、多くの人は、三度の食事をしてあとボーとしているらしい。
 自分の今後を考えて怖いのはガンなど難病で苦しむことである。高齢の鬱病も多く、これもつらい。認知症は、苦しみは少ないように思われるが身の回りや世の中のことが分からない状況では生きがいがない。
 難病でなくても体力が亡くなると飲み込めなくなって食べることが非常に難しくなり、点滴のほかに末期的な治療として、栄養液を鼻を通して胃まで入れたり、胃瘻という胃に穴を開けて栄養液を入れることが行われるようになった。鼻から管が入るのは呼吸がしにくく苦しいらしい。どちらにしても寝たきりになってしまう。ただこの措置は本人や家族の判断で前もって断ることができるらしいが難しい判断になる。弱って食べられなくなり、入る栄養が少なくなると楽に死ぬことができるようであるが。
 治る見込みがなく大変苦しい時に、安楽死を早くさせて欲しいものであるが、我が国では何かと難しい。安楽死を手伝った医師が患者さんは感謝しているに違いないのに罪になるなど人の心を考えない社会になっている。
 基本的に生物が生きていることは、宝くじよりも遙かに確率の低い運に恵まれたものであり、そこに居られたかもしれない他の生物にとってかわっていることを考えなければならない。一つの生命は、本来そこに生きていられたかもしれない他の生命の犠牲に立っていて、生命が消えることはその分、存在できなかったかもしれない別な生命が生きられることである。
 生きていることが苦痛で、回復の見込みのない寝たきりの高齢者一人が消えたら、その分、新しい命や、若くして自分の命を絶つ人に、手をさしのべることができる。
 80才を超えて、重病などによってもういいという希望者を安楽死させてもらう制度ができるとありがたい。