権限と責任の所在 広い視点で−(10)−

月刊下水道 Vol.21 No.13 1998より

5,表がきれい事過ぎる
 一流の証券会社や銀行の不祥事は、企業ぐるみという点で非常に大きな問題である。しかし、深みにはまってしまった原因はなにかというと、はっきりしない。いろいろな報道によれば。幹部職員の個人的スキャンダルとか営業職員のちょっとしたミスとかが問題の発端であったようである。報道を見ていると、関係者のみが悪いことをしており、特定個人のせいにしているが、当事者にとっては組織維持の上で止むにやまれぬものであったろう。事件が起これば、問題の原因を探索せず、当事者をよってたかって叩くことこそが問題ではないかと考えるものである。
 最初の段階でどうして収集できなかったのだろうか。こうなる原因の一つに、
日本の表と裏の社会の存在がある。もめる話は表に出ない形で収拾し、表はきれい事で通してしまう。この結果、些細なことでも表にでるようなこととなると、大問題になってしまうのである。表面上矛盾のないきれい事の世界は、裏に大きな矛盾と闇の世界を形成する事に通ずる。
6,もっとおおらかに
 日本社会の特長としていわれる御神輿かつぎは、一生懸命担いでいるのも、いい加減にぶら下がっているのもいるが、非常に重い御輿がちゃんと動いていく。 この集団で取り組んでいく精神は、アメリカで生産性向上運動などに取り入れられている。
 組織の維持や保全でなく、
組織の使命達成に対して知恵や力があるものが、その能力を十分発揮していくようなシステムが組織の中で機能すれば問題ない。
 今起こっている重大な問題について考えると、当事者だけがいかにも悪者になってしまっているが、個人の資質で起こりうる問題でないのは明白である。その
構造的な要素を解析して、改善していくことが求められている。
 以上のことから次のことが言える。
 
稟議の対象にするのは基本的な方向だけにすべきこと、なんでもかんでもトップを引っぱり出す風潮をやめること、きれい事の世界をやめること。

写真 エッフェル塔     

パリの象徴の建設時、芸術や科学の教科書に出てくる多数の著名人を含む大反対運動があった。よく着工できた感がある。議論はあっても権限と責任は当事者にあったほうがいい。

−目次に戻る−