逆転の思想−84
              水道公論2009年 11月号


  五輪開催都市選定の問題
 
 今回の2016年オリンピッ開催都市選定での競い合いを見ていると、敗者のダメージが非常に大きく、悲惨なローマ時代の拳闘士の試合を見ているような感じがする。日本ではマスコミが、大きく報道してお祭り騒ぎにしていたなど、IOCは選定の動きが盛り上がって満足らしいが、国家元首を引っ張り出して結果的に辱めたり、多額のお金を使わせたりして、後味の非常に悪い想い出だけが残っている感がある。
 そもそもオリンピックは純粋なスポーツの祭典でお金をかけるべきものでない。また政治の場となることは避けるべきで、ただでさえその傾向が強いのに、国家元首級の政治家を呼びつけるように仕向けて、むごい扱いをするなど問題であると考える。
 東京都が使ったお金が百何十億円といわれているが、他の都市も多額のお金を使っているのだろうから、表のお金だけで1千億近くになるのではないか。それが全部、開催都市選定ということだけに使われる。このお金だけで、オリンピックが開催できるのではないか。またお金の一部は委員会に環流しているのではないか。開催都市を決めるのに、多額の付け届けや裏金が動く話もある。過去に開催都市決定で、一部のIOC委員が買収されたりというスキャンダルがあって、改善されたはずであるが。
 本来開催地決定は、お祭りでなく費用のかからない運営が求められるのに、全く逆の金儲けのスポーツ興行と化している。オリンピックは前々からその商業主義が批判されてきたが、ますますひどくなっている感じがする。国際オリンピック委員会は本部をスイスのローザンヌに持つが、国連のような国際機関でなく、非営利の民間団体であるとのこと。、運営がよく分からず、公正な第三者のチェックがきかないこともあるのではないか。映像使用料などで多額のお金を集める団体が非営利というのもおかしい。
 国際機関で、最貧国の子供達のためのの募金をしているユニセフが、一生懸命に募金活動をして、細かいお金を積み重ね、2006年に届けたワクチンの総額5百億円と比べると、お金の使われ方にとんでもない格差を感ずる。オリンピックの創始者とされるクーベルタン男爵の考えたことと全く別な運営になっているようである。
 オリンピックが国威発揚の場と化していることもあるのだろう。参加国は威信をかけて選手育成や、参加都市の応募をしている。これをあおっているのが報道機関である。
 参加都市が一巡して、開催都市誘致に魅力がなくなるまでこの騒ぎは続くのだろうか。
 多額の無駄なお金の支出や、要人まで含めた大勢の人の動員など、エコとはほど遠く、お金、人の無駄遣いをやめて、早く本来の姿に戻ってほしいものである。