逆転の思想-78
              水道公論2009年 5月号


  思い残し
 
 人生で残りの時間の方がずっと少なくなり、時間的余裕も出てきた今、思い残しができるだけ少なくなるようにしている。
 落語で、「そばは、だしをちょこっと付けてするっと食べるのが通だ」と威張っていたそば通が、いまわの際に「一度つゆをたっぷり付けて食べたかった」と言った話が気になる。
 人生のたそがれ時にしたいことはいろいろある。1度行きたかったところに行くとか、体験するとか。退職後六十の手習いでピアノなどの楽器の練習を始めた話を聞くことがある。満足に弾けるようになるまでは相当時間がかかるのであろう。
 悔やまれる思い残しは、宇宙旅行や大庭園付きの豪邸などお金がかかってできそうもないことや、根気があって、時間のかかる楽器の習得でなく、比較的簡単にできたのに果たせなかったことにある。
 上高地は子供の頃からのあこがれでいつか行きたかったが、遠いところでずっと出かけるという気にならなかった。何年か前に思い立って行ったところ、時間はけっこうかかるが意外と難しくなかった。1度行くと身近になってしまい、至る所にいい風景があるのでそれ以来何回も出かけている。
 いつまでもあるものはいいが、なくなってしまうものは逃したら終わりである。
 逃してしまった一つが彗星の尾を肉眼で見ることであった。子供の時から楽しみにしていたハレー彗星が前回1986年の接近で地球から遠い所を通過してしまい、期待はずれで尾どころか本体も見るのが難しかった。
 ところが10年後にヘールボップ彗星が現れたのである。けっこう明るくて彗星とわかる本体は都市部の夕方でも観察できたが、尾をはっきり肉眼で見ることは難しかった。ところが、離島などの空気のきれいな所まで行っていたら、肉眼でも長い尾がはっきり見えたことを後に知った。時間的余裕があったのに気が付かないでいる間に彗星はいなくなってしまった。そんな彗星はもう現れないであろうから、悔やみだけが残る。
 思い残しの範囲外であるが、昔の絵にある満天の流れ星も一度体験してみたいものである。数年前に毎分一個くらい流れたことがあっていい思い出になったが、空を埋め尽くすくらいのものが見たいものである。流星は砂粒程度の小さいのが、大気中に突入して明るい光をだすものだそうで、花火のようにロケットで作り出せると思われるが。宇宙が何故存在するのかという気の遠くなる話は生きているうちには無理だろう。
 素人には大変難しいような、それほどでもないような思い残しであるが、売られているもののようにきれいな玉の白菜を一度つくってみたいこともある。うまくすればベランダでも出来るかもしれないが、よく世話された畑でないと無理なのであろうか。
 ブロッコリーは、半日しか日が当たらないベランダで、これまでいつも小さいのしかできなかったが、今年はやっと大きく実を結び思い出ができた。残念ながら味は小さい玉しかできなかった頃と比べまずかった。