逆転の思想-66
              水道公論2008年  5月号


  繁栄と歴史遺産
 ここ数年、街の水辺の写真をとり続けている。水辺景観を引き立てるものとして、回りの植栽、建造物・構造物が要素となる。水の色はよほどの清流であればいい色がでるが、普通の流れでは、天気が良くて青空が出ているときれいに写るし、曇りだとどんよりしてしまう。
 良好な景観の重要な要素となる橋や回りの建物は新しい物でもいいのであるが、写真写りがいい見栄えのする景観となるとどうしても古い物が多くなる。古い建造物が目立つのは、京都、奈良は別として小樽と門司である。小樽運河と門司港は見て回るのにちょうどいい小規模な港で、味わいがある。この2つの街は、歴史的な共通点がある。それはかって交通の要衝にあったことである。これにより商業の中心にもなった。小樽は北海道の、門司は九州、大陸への玄関口、通過点であった。その後、交通の流れが変わって取り残されてしまった。
 明治の頃小樽は札幌をはじめ道内への物資の陸揚げ港となり、明治13年には空知地方の石炭の搬出を目的として、日本で3番目、北海道で最初の鉄道が小樽と札幌間に開通した。このように、明治から大正・昭和の初期にかけて北海道経済の中心として繁栄し、この時期に洋風又は和洋折衷の意匠を取り入れた商家、銀行、取引所などがあいついで建設された。しかし明治41年に青函連絡船が動きだし、その後、ロシア貿易の衰退、石炭積み出しの減少によって経済的な価値が減少していった。
 門司は明治24年九州鉄道の門司駅として開業した。明治34年に下関との間の連絡航路が開通し、九州の玄関口となった。大陸への通過点にもなり、各種の官庁、金融機関、海運会社、各種会社の本社、支社等が門司港に、どっと集まり、多くの素敵な建物が建てられた。以来、約40年間、関門トンネルができるまで、人と貨物を載せて九州各地に向かう表玄関であった。
 交通の流れが変わったことが、後世に残る歴史的な資産を残してくれたことになる。もう1つ、取り残されたまま寿命が来て壊されてなくなってしまう前に国全体が豊かになり、古いものを大事に、また見て回るという動きが出てきたこともある。
 地域にとって、街の衰退は死活問題であるが、歴史的遺産の保全という点では好ましい。
 京都もそうであろう。明治新政府が都を京都としていたら、今見られる多くの美しい遺産が消えていたことだろう。 
こういう意味で長期にわたり繁栄してきた都市は史跡や、古いものが残りにくいことになる。
 パリはこういう点でずっと政治経済の中心であったのに歴史的な施設が沢山残っている。古いものが大事にされて立派である。
首都が東京から離れ、百年経ったら東京はどういう街になっているのだろうか。史上最も豊かな時代で富が集中しているのに、将来観光コースに組み込まれるような遺産があるだろうかとなると疑問が多い。