逆転の思想-60
              水道公論2007年 11月号


  トップの職務
 我が国では、何か事件が起こるとその重要さに関わらず、物珍しさが取り上げられてトップが引っ張り出されることが多く、最近その傾向がさらに強まっているようである。前の話になるが北朝鮮からの漁船の難民の事件でも、それ自体は珍しいことではあるが、国政への影響は少なく、中身を考えると担当部局で処理したり、広報官が説明すればすむことであるのに、首相まで引っ張り出されてコメントを求められていた。
 また、すぐ辞めさせる、辞めさせないの大きな議論がおこる。最近の選挙などでも、政策のことはどこかに飛んでしまって、何議席確保できなかったら退陣とか閣僚の不祥事の任命責任など、首をすげ替える話ばかり。そのうち誰もいなくなってしまうのでないか。折角小泉体制で総理大臣在任期間が長くなって、トップの仕事がやりやすくなったと思っていたら、元に戻ってしまったようである。
 トップの人材はなかなか得られるものでなく、また職務の経験も大事である。重要な職務では、仕事を理解して、新たな創造ができるまで1年はかかる。問題が起こったからといってすぐ首をすげ替えていたら重要な問題はどんどん先送りになるし、仕事の質は低下するばかりとなる。
 本来、トップの人には重要な問題に取り組んでもらって、ささいなことに時間を取られないようにしてもらわなければいけない。多くの事象は報道担当の人がコメントすれば十分なことである。トップを引っ張り出すことがそんなに重要なことなのだろうか。
報道の上では珍しいことは貴重なことであり、重要なこと以上に扱われることが多い。しかし報道だけならいいが、珍しいことが重要なこととと同様な重みを置かれ、トップのコメントまで必然というようになっていることは異常である。どうも報道の世界では重要なこととと珍しいこととが同等の価値を持つように混同され、その扱いが同じになるように教育されているように見える。また、事態に関わらずトップを引っ張り出すことが手柄になっていることは困ったことである。
 国会の審議でも、政治資金のように、センセーショナルなことのみが大きく伝えられる。以前年金が大きな焦点を浴びたとき、基本的な課題がいくつもあるのに昔納めるべきものを納めたのかなど、政治家の個人的な問題をことさら大きく取り上げているように見えた。こういうことしか報道されないからそう見えるかもしれないが。
 一方、事件や問題などに対してすぐトップが引っ張り出され、あれこれ根掘り葉掘りコメントさせられることは、現場での即時の措置が非常にしにくいようにさせられているように感じる。事件の大きさに関わりなく、なんでも組織上部に、上げなければならないことにより、現場の臨機応変の対処ができず、非常に硬直化した世界となってしまう。
 事業は一人でできるものではない。組織の中の業務分担があって自分の分担をしっかり考え、行動しなければならない。刹那的になんでもトップを引っ張り出すと言うことはトップに報道官の役割しか求めていないことになる。またすぐ首のすげ替え議論が出るのは人材の活用、仕事の中身を無視したものである。
世の中すべからく、きまぐれなことでなく常識を持って対処する必要がある。