逆転の思想-36-
                水道公論2005年 9月号


 街の景観を害するもの
 街の水辺の写真を撮り始めて、気になるようになったのは、良好な景観を邪魔するものが非常に多いことである。
 花見で有名な千鳥ヶ淵であるが、ここで目障りなのが電線である。ちょうど桜の花の高さ当たりになぜと思うほど多数の電線が張ってあり、それを避けて写真を撮ることは難しい。お濠と公園の境であるから道路上の電線と違って、設置場所もそんなに制限がなく、目障りなところに設置される必然性がよくわからない。花見見物だけであればそんなに邪魔に感じないと言えばそれまでかもしれないが。
 花見と言えば、昔からの花見会場では多数の幟や提灯が桜よりも目立つ存在になり、写真が撮りにくい。花よりだんごの世界のような感がある。
 早咲きで有名な伊豆の河津桜を撮影しに行ったときも、何故か新聞社の赤い旗がそこここの丁度いいアングルのところにくくられていて、写真が撮りにくかった。
 最近、花見の場所も増え、新しいところでは幟も提灯もなく、桜を良く鑑賞でき、ありがたいことである。 別の気になる要素が看板である。多くの場所で、いい景観があって全景写真を撮ろうとすると、景観から浮いてしまっている何かの看板が必ずと言っていいほど入ってくる
公共の広告もけっこう多い。新幹線からも、沿線で広告の規制があるのに至る所に看板が見える。いい景観を台なしにしてることが多いので反感を持たれ、逆効果の広告でないかと思われるが。
 市役所などの建物にはいつも、公共のキャンペーンなどの垂れ幕がかかっている。こういうものは本来、専用の広告施設をつくってそこで掲示したほうがいいと思われる。おざなりでなく存在感のある公共広告にして欲しい。
 6月にブダペストやプラハの美しい街を訪問する機会があったが、そこで良かったのは目障りな看板などが殆どなかったことであった。長らく共産圏であったため、広告の必要がなかったとも考えられる。また、同じ共産圏でも、行ったことはないが、テレビなどで見ると、東洋、中近東の国々は、至る所にスローガンの入った看板が出ていたような感じがするので、この辺のところは国民性の問題なのかもしれない。
景観を害するものとして電線ばかりが非難されることが多いが、広告看板、統一のとれない建物、その他、多数のものがある。景観は主観的な要素が大きく、規制というのは非常に難しい。常識がいかに守られるかが大事と思われる。