逆転の思想-19-
                水道公論2004年 4月号


 カタカナ語の運用

 カタカナの氾濫が言われてから久しいが増えるばかり。カタカナ言葉は新しい言葉として英語から入って来るもの、キッチン、リクルートなど感じがいいので日本語があるのにカタカナを使うものなどある。新しい概念が多く日本語で表現がしにくいのは、コンピューター関連用語である。ファイルを日本語でなんていえばいいのだろう。フォルダーはまだ入れ物、区画でもいいような気がするが。
 ある発展途上国の人と、だいぶ前に技術用語の話をしていたことが想い出される。英語の文書に慣れているというのでその状況を聞いたら、その国では技術用語の翻訳ができていなかったため、結局、公用文書まで英語で作成せざるを得ない状況になっているとのことであった。
 漢字もそもそも外来のものであるし、英語が浸透してくるのは時代の流れなのだろう。ただ一方的というわけでもなさそうである。携帯電話が日本語なのは英語単語がセルラーフォンなど話しにくい言葉であるからかなと考える。
 言語は時の流れによって変わっていくもので、数百年すると理解が非常に難しくなる。変化が激しい現代はもっと変わっていくだろう。地名、人名など漢字の読みが分からない問題は昔からあったがこれまでは本や文書を目で読むことが主であったからあまり大きな問題でなかった。現在、テレビなど音声による情報の伝達が主になっている。またワープロが文書作成の主流になって、かな漢字変換入力作業によって読みから漢字に変換する時困ることが多い。音声的な情報伝達が多くなって来ている現在、読みがわからない問題はなんらかの形で軽減されていくのであろう。
 非漢字圏から入ってきた言葉がカタカナという形でその由来が分かることはすばらしいことである。もともとカタカナは漢字を読むための補助的なものだったそうであるが、それをうまく活用して、ひらかな、カタカナの2種類のかなを使い分ける我が国独自のものであろう。
 ただナイターに代表される英語でない、カタカナ語の増加は防がなければならない。すでに、コンセント、車のハンドルなど英語にそのまま使っていけないカタカナ語の本まで出版されているほどに増えている。国際化で外国人と話す機会はどんどん増えるが、その中でカタカナ語を使えば楽なので英語でも同じ意味を持つだろう使ってしまい、思わぬところで意思疎通ができないことになる。英語圏でもけっこう地域性が強いようで、それほど気にすることはないが、全く通じないカタカナ語が増えて対応する外国語を覚えなくてはいけないことは語学学習をもっと難しくする。
 最近のはやり言葉としてマニフェストがある。伝票のMANIFESTと混同してしまうが、辞書を引いてみると声明、宣言は末尾にOが付いて、マニフェストウである。
 これからの日本人が不要な苦労をしないよう、ちゃんとしたカタカナ言葉を導入して欲しい。
 国語審議会の答申で新しい言葉を使うときは慎重になどと答申がでているが、外国人とのコミュニケーションに支障となるような変なカタカナ語は使うのをやめるような制度化が必要と考える。