逆転の思想-9-
                水道公論2003年 6月号


 当たり前のことを支えること

 しっかりとした品質管理は信頼の源泉である。
 我が国の自動車は故障が非常に少ないという定評がある。また最近揺らぎ気味であるが、遅れがないという鉄道の信頼性の高さは有名である。しかしこれらのなかなかまねができない信頼性の高さは、それを守る人々がいて、仕組みがあるからである。しかし、信頼性確保が当たり前のようになっておろそかになりつつある状況のような感じがする。
 その一つの表れが豪華客船の大火災でないだろうか。豪華船の建造というめったにない機会なのに関係者は非常に残念な思いであろう。
 大型客船の建造にはこれまで経験のないような多種の材料、様々な作業が必要になる。定められた期限内に工程を管理することは工程表の管理だけでなく、現場を見ながらの臨機応変な措置が必要と考えられる。
 豪華客船は二隻の時期をずらして建造することにより、作業の負荷が平準化されるはずであったが、火災で内装作業などが重なり、担当の下請け中小企業に一層負担が大きくのしかかるという話もある。
 大火災の前に何回か不審火があったそうであるが、大事故というのは通常何らかの予兆を伴うものであり、予防措置の徹底だけでなく、状況の把握と俊敏な対応があれば防げたものと考えられる。
 事故の背景としてコストダウンのしわ寄せにより、現場で相補う習慣が薄れ、隣のことをあまり注意しない世界になってきていることが考えられる。我が国の経済発展の原動力となった、品質の良い、ミスのない目標に向け皆で一緒に頑張るということが薄れてきている気がする。
 これまでの我が国の仕事のやり方は、一つの目標に向かって皆で頑張るという、御輿かつぎのようなものであった。この裏には、全体の進行に影響する問題については皆で真剣に応援する、また問題が起こらないよう回りのことを気にかける、というような細かい気配りがなされていた。
 一方で我が国の法制度は欧米流の契約社会の流儀になっていて、罰則が責任者に課せられるので、これまでの共同責任体制では、どんな責任もトップにきてしまう。
 欧米流の責任の分担、明確化はそれを決めたり評価したりするシステムが大きな仕事になり、それなりの体制にしなければ適正にできない。
協調社会の効率的な執行体制だけいいとこどりして契約社会に変えていくのは基本的に無理な話である。
 皆で一緒に取り組むという日本社会の良さを残していかないと、平凡な、埋もれた国になってしまうのではないか。