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1,はじめに 山形県の山奥の小さな谷の川を取り巻く温泉街である。非常に狭い川の両側にびっしりと大正から昭和初期の懐かしい感じのする11の温泉宿が並んでいる。温泉としては約260年もの歴史があり、連続テレビ小説「おしん」の舞台としても登場した。辺り一帯はノスタルジックな雰囲気。川には多くの橋がかかり、石畳、ガス灯が並ぶ歩道が続き、大正ロマンを漂わせる情景を示す。温泉街の道は狭く自動車は入れない。 新幹線の大石田駅で下車して銀山温泉行きのバスで40分で行けるようになったが本数も少なく、遠いところである。
延沢銀山が見つかったのは、1456年。採掘の最盛期は1630年頃、閉山されたのが17世紀末と約2百年余採掘された。銀山跡は温泉から400mくらい離れている。温泉は、鉱山労働者によって発見されたと伝えられている。泉質は含食塩硫化水素泉。鉱山閉山後も湯治場として賑わっていたが、大正2年(1913年)8月の大洪水により壊滅した。このときの県の記録では県南部で大雨の被害がひどいとされている。
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温泉街再建は大正の末期から昭和のはじめにかけて行われた。建物の様式は和洋折衷とされている。伝統的日本建築とも異なる独特な感じで、これが温泉街の価値を高めているものと思われる。 一番印象が強かったのが、小関館という建物3階の窓で、引き戸のような明かりとりの2連の窓枠から人の目のような印象を受ける。 また、多くの建物が、鏝絵(こてえ)の戸袋を持っている。鏝絵は、漆喰を塗った上に、鏝で風景や文字などを描いたもので白黒で屋号や旅館の名前、旅館の持ち主の名前が描いてあったり、カラーで富士が描かれていたりしている。 尾花沢の街から相当離れた財力が期待できない小さな湯治場で、どうしてこういう豪華な凝った建物が建てられたのか不思議なところであるが、やはり尽力した人がいたようである。 まず地元・大石田銀行の田中豊頭取。田中頭取は、大災害こそ、むしろ銀山温泉が新たに生まれ変わる好機と考え、自分の資産も投資するほどの熱意を込めて、銀山温泉の景観整備に力を注ぎ、その熱意が、地元の大工職人の創作意欲を呼び覚まして、銀山温泉の景観が誕生したらしい。 その一人に後藤市蔵という一人の左官がいる。その仕事ぶりは日本画を描く画家であり、彫刻家であり、橋の設計者であり、建築家でもあった。見事な鏝絵だけでなく、能登屋など温泉旅館建物の大胆な基本設計まで及び、市内のお寺でセメント造りに彩色した立派な仁王像も残している。これらの人々によって独特な街並みがつくられた。 この景観を守るべく尾花沢市では家並保存条例をつくっている。ただ、建物がそれぞれに凝っているのでこの運用は非常に難しいものと考えられる。2007年の冬に短時間滞在し、写真を撮ることができたが、そのうち一軒の旅館は現代日本建築風に建て直され、それ自体はいいが、まわりとそぐわない感じがして、写真の構図からはずさざるを得なかった。 また、非常に狭い温泉街なのに小さな足湯「和楽足湯(わらしゆ)」や共同浴場「しろがね湯」をつくるなどの工夫もされている。二つとも平成13年にオープンした。 銀山温泉が全国的に有名になった今、貴重な街並みの保存維持が期待できるのはありがたいところである。
温泉の排水は銀山温泉浄化センターで処理されている。山形県HPによれば特定環境保全公共下水道事業着手は比較的最近の平成9年、平成15年12月に供用開始で、処理区域は4ha、オキシデーションディッチ法である。 参考 東北芸術工科大学 特別教養講座 東北の風景再発見、フジテレビ旅美人HP |