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1,はじめに 運河水辺公園は柏から大宮にいたる東武鉄道の運河駅近くにあり、桜並木もあって花見ができる。ここの利根運河は、明治23年(1890年)に利根川と江戸川を結ぶ約8.5qの運河として開通した。事業は「利根運河株式会社」によって行われ、工事を監督したのは、1879年に来日したオランダ人技術者のローウェン・ホルスト・ムルデル。工事はほとんどが人力作業であったが、工事開始からたった2年後に通水。これにより関宿までさかのぼっていた利根川−江戸川航路が40km短縮された。銚子から運河までざっと100kmであることを考えると、距離の短縮効果は大きい。運河の完成により物資輸送は便利になり、開通直後には一日平均百隻を上回る輸送実績をあげた。しかし僅か6年後に開通した常磐線により大きな打撃を受けてしまい輸送量が減少。その後昭和16年の洪水で堰が壊れ、結局政府が買い取ることになった。 鉄道誕生の前、大量の物資を運ぶには舟運航路がで主流であった。ヨーロッパではあちこちに運河が掘られている、その後鉄道の発達により運河利用は衰退しているが、いまなお至るところに残っている。英国では、国内縦横にある運河を旅することが盛んで、「ナローボート」という細長い船に寝室がいくつか設けられたホテル船で、歩く程度の速度であちこち旅行することができる。主要なところでは沢山のナローボートが停泊している。ロンドン中心部でもパディントン駅のすぐそばに、ナローボートが数十隻いる船溜まりがあり、運河が北と西の方にのびている。運河は立派なトンネルも通っていく。 我が国では産業化が遅れて出発したために最初から鉄道建設に力が入れられ、運河は少ない。こういう意味で貨物輸送のためにわざわざ掘削された運河は大変珍しいものである。運河という駅名も貴重に思える。
なぜここに運河をつくったのかという疑問が起こるが、これは利根川の東遷事業にさかのぼる。利根川は江戸時代初期までは、東京湾に注ぐ川であった。暴れ川であったが流路は今の古利根川筋であった。古利根川は江戸川の西を平行して南に流れ、江戸川との平均距離は5kmくらいしかない。また江戸川のところには、昔は渡良瀬川が流れていた。 徳川家康の号令で、東北地方や北関東から江戸の街への水運ルートの確保や、関東平野の新田開発の推進を目的とし、伊奈忠次、忠治らによる利根川を渡良瀬川水系や鬼怒川水系と繋ぐ瀬替え(利根川東遷事業)の大事業が始まり、最終的には利根川の本流は銚子の方へ流れるようになった。東遷事業のあらましは、利根川と東隣を流れていた渡良瀬川を接続させ、その先をさらに鬼怒川水系下流方面へとつなぐというものであった。 利根川の東遷によって銚子から関宿分水を経て江戸に至る水運ルートができた。このルートは黒潮がぶつかる大きな房総半島を迂回しないで安全に航行できることから、東北、北関東と江戸を結ぶ主要な物資運搬路になった。また外航船と川舟との物資積み替えを行った銚子、酒造の佐原、醤油製造の野田などの航路沿岸の産業都市が栄えた。このようにかって利根川は物資輸送の重要路であった。このことが運河の事業化につながった。 利根川の東遷はされたものの、大洪水が来ると旧利根川流域への影響も大きく、明治43年の大洪水、昭和22年のキャサリーン台風では東京下町まで被害が及んでいる。。
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公園周辺にもいろいろな施設がある。まず運河駅の少し東の南岸にある理窓会記念公園。東京理科大学創立100周年を記念してつくられたキャンパス近くの公園で、運河堤防から自由に出入りでき、池や斜面林、変化のある森など多様な環境があり、散策コースも整備され、バードウォッチングも楽しめる。 水辺公園に隣接する利根運河交流館では、利根運河の歴史や周囲の自然環境、さらに運河の建設に大きな役割を果たしたムルデルに関する資料を展示しているほか、情報発信・交流の拠点としてさまざまな活動を行っている。 参考 利根川上流河川事務所HP、江戸川河川事務所HP |