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1,はじめに 宮島には満潮に近い頃になるように潮位を調べて到着した。瀬戸内海の潮位差は大きく、満潮の方が写真写りがいい。 厳島神社は海の上に社殿を建てるという想いが今に伝わる遺産となっている。しかしその自然条件を考えると厳しいものがある。最近の台風で2度も大破するなど、維持修復に多額の費用を必要とする施設が、長い歴史の中でよく保存されてきたものである。 2,神社の設計 厳島神社は宮島の北の小さな湾内にあり、三方からの波は来ない。しかし北西方向は開いていて、北西風により2kmの距離で成長した波がまともにくる。干満のこともある。瀬戸内海は干満の差が大きく、大潮時に4m程度もある。秋の大潮満潮時、時として回廊まで上がってきて拝観中止になることがある。
厳島神社は6世紀頃からの歴史があること、平家の勢力の強い地域の真ん中に位置すること、安芸地方で序列が高い重要な神社であったこと、などのためここに造営されたのだろう。また神様に海から来ていただくため海がある程度広くある必要もあったと考えられる。建築形式は一般的な神社風でなく、本殿と回りの建物を回廊で結ぶ寝殿造りをもってきている。本殿の前に幣殿,拝殿,祓殿と順に連ねた複雑な形態になっている。 一方、社殿前には神社にある、ぬれ縁のような外廊下を思わせる平舞台や、埠頭のような張り出しである火焼前が設置されている。御祭神が海の神様であるため現世に竜宮城を再現しようとしたためか、また来世を船で渡って極楽浄土にまいる藤原時代の浄土信仰の一つのあらわれか、とにかくも独創的である。平安時代の設計思想がここに残されている。 独創的な設計も、技術が伴わないと実現しない。どういう人が設計したのか興味があるところであるが、よく思い切って海岸につくったものである。
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鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になると、社殿は徐々に衰退し、荒廃の時代を迎えるが、弘治元年(1555年)、毛利元就が厳島の合戦で勝利を収め、社殿を支配下に置き、神社を深く崇敬した頃から社運はふたたび上昇した。以来毛利や秀吉など代々の権力者に守られて保存されてきている。江戸時代になって、参拝者のお金も主要な財源になってきたというのも興味を引かれる。 厳島神社は仏教と関わり合いが深く、複雑な歴史の流れを感ずる。明治時代まで神社のすぐ西にある大願寺が修理造営を担当してきた。神社がなぜ修理造営をできなかったのであろうか。大願寺には弁財天が祀られていて、江ノ島(神奈川県)、竹生島(琵琶湖)とならんで日本三弁財天の一つとのこと。 神社の隣には1407年に建てられた五重塔があり、同じ朱色で神社と一体的な景観を形成している。また1587年に秀吉がお経の転読供養のため隣接して千畳閣の造営に着手している。秀吉の死により天井が張られていないなど未完成の状態にある。 厳島神社に貢献のあった平清盛について、宮島の人たちにより、1954年に神社がつくられた。この間約8百年経ている。神社から少し離れた北西の海岸に、ほこらのようにこじんまりした清盛神社がある。厳島神社を見守るように。 |