週刊下水道情報1524 平成19年1月18日発行
連載・水辺の散策  −歴史・文化・生活考−
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宮島
1,はじめに
 宮島には満潮に近い頃になるように潮位を調べて到着した。瀬戸内海の潮位差は大きく、満潮の方が写真写りがいい。
 厳島神社は海の上に社殿を建てるという想いが今に伝わる遺産となっている。しかしその自然条件を考えると厳しいものがある。最近の台風で2度も大破するなど、維持修復に多額の費用を必要とする施設が、長い歴史の中でよく保存されてきたものである。
2,神社の設計
 厳島神社は宮島の北の小さな湾内にあり、三方からの波は来ない。しかし北西方向は開いていて、北西風により2kmの距離で成長した波がまともにくる。干満のこともある。瀬戸内海は干満の差が大きく、大潮時に4m程度もある。秋の大潮満潮時、時として回廊まで上がってきて拝観中止になることがある。 

社殿
 東側から
 満潮の時の景色は良いが、干潮の時は床下空間が大きくなって見栄えが良くなくなる。床下の高さがその分高くなると地震などの際、構造的にも不利になるし、海水によって腐食する木材の性格からも難点がある。実際の床下高は2m程度であり、建物の土台付近は海底から少し盛り上げてある。この高さでは平均潮位以下の時には土台や海底が出て来ることになる。床下が高くないので建物としての景観バランスは保たれているが、残念ながら海の上に浮かんでいるイメージは薄れる。自然条件を考えると京都府伊根の舟屋に代表される干満の差があまりない日本海沿いの方が良かったかもしれない。
 厳島神社は6世紀頃からの歴史があること、平家の勢力の強い地域の真ん中に位置すること、安芸地方で序列が高い重要な神社であったこと、などのためここに造営されたのだろう。また神様に海から来ていただくため海がある程度広くある必要もあったと考えられる。建築形式は一般的な神社風でなく、本殿と回りの建物を回廊で結ぶ寝殿造りをもってきている。本殿の前に幣殿,拝殿,祓殿と順に連ねた複雑な形態になっている。
 一方、社殿前には神社にある、ぬれ縁のような外廊下を思わせる平舞台や、埠頭のような張り出しである火焼前が設置されている。御祭神が海の神様であるため現世に竜宮城を再現しようとしたためか、また来世を船で渡って極楽浄土にまいる藤原時代の浄土信仰の一つのあらわれか、とにかくも独創的である。平安時代の設計思想がここに残されている。
 独創的な設計も、技術が伴わないと実現しない。どういう人が設計したのか興味があるところであるが、よく思い切って海岸につくったものである。

高舞台から
平舞台の中に舞楽を演ずる舞台で国宝の高舞台が。前に桟橋のように突き出ているのが火焼前。管絃祭の出御・還御はここから。
3,鳥居
 本殿から距離で194m(108間)沖にある、海中の鳥居もまれなものであり、海外への観光紹介のシンボルとなっている。この鳥居は海中に基礎を打ち込まず、海底に置くように作られている。鳥居の形式は、四脚造りで、楠の自然木を使っている。平安時代の記録では、鳥居はあったことになっているが、形式はどのようであったかわからないそうである。今の鳥居は平安時代から8代目で、明治7年10月に建立にかかり、明治8年7月に完成したもの。主柱の用材は宮崎県と香川県から選び、総高約16m、主柱の高さ約13.4m。二本柱は普通の鳥居のように同じ太さに削っていなくて、下の方が太くなっているのがちょっと気になる。右の柱の根本が特に太い。支持のための副柱を繋ぐ木材の穴があって太くする必要があったのだろうか。重さをかせぐためにそうなったのか。次回建て替えではもっとスマートにしてほしいがどうなるのだろう。
4,歴史の複雑さ
厳島神社は平清盛が1168年から数年かかって造営したが、僅か10年ちょっと後の1185年に壇ノ浦の戦いで平家は滅亡してしまった。本来厳島神社も消え去ったところであったが、1189年に源頼朝が神楽料を奉納。敗者を尊重するという日本古来の伝統によるものであろう。嵐だけでなく、承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災にあっているのに再建されてきた。
 五重塔と千畳閣 東回廊から
神社と寺院施設が一体化した景観に。
 平家滅亡の後、2回も火事があったのに多額の経費をかけて再建したというのはとても考えられないことである。焼けたあとしばらくそのままだったら、普通忘れ去られてしまう。保存の努力が一度でも途切れたら、現在に残るのは伝承だけになる。
 鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になると、社殿は徐々に衰退し、荒廃の時代を迎えるが、弘治元年(1555年)、毛利元就が厳島の合戦で勝利を収め、社殿を支配下に置き、神社を深く崇敬した頃から社運はふたたび上昇した。以来毛利や秀吉など代々の権力者に守られて保存されてきている。江戸時代になって、参拝者のお金も主要な財源になってきたというのも興味を引かれる。
 厳島神社は仏教と関わり合いが深く、複雑な歴史の流れを感ずる。明治時代まで神社のすぐ西にある大願寺が修理造営を担当してきた。神社がなぜ修理造営をできなかったのであろうか。大願寺には弁財天が祀られていて、江ノ島(神奈川県)、竹生島(琵琶湖)とならんで日本三弁財天の一つとのこと。
 神社の隣には1407年に建てられた五重塔があり、同じ朱色で神社と一体的な景観を形成している。また1587年に秀吉がお経の転読供養のため隣接して千畳閣の造営に着手している。秀吉の死により天井が張られていないなど未完成の状態にある。
 厳島神社に貢献のあった平清盛について、宮島の人たちにより、1954年に神社がつくられた。この間約8百年経ている。神社から少し離れた北西の海岸に、ほこらのようにこじんまりした清盛神社がある。厳島神社を見守るように。